心の殺陣記 ちら裏 忍者ブログ
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ちょっとレポート用に。
チラシの裏みたいなもんなので、畳みます。
藤原俊成の『日野切』を中心に考えたレポートですが、
興味のある方以外は読んでも仕方が無いよ!

・日野切
 元は両面書写した冊子本であり、俊成の自著は無いが独特の筆勢と、彼の自筆書状と比較して真蹟であると考えられている。
 俊成自らが撰者となった『千載和歌集』を書写している。
 名の由来は公卿の日野家に伝来したからではないか。

・藤原俊成(1114-1204)
 和歌学者であり『千載和歌集』撰者。息子が定家ちゃん。
 御子左家が後に和歌の家となる礎を築いた人物。
 和歌に優れたため、たびたび歌合の判者となっていた。

 →書風 転折が極端な鋭角でピンピンとした針金のよう。独自の奇癖をもつ。

 →書作品 『日野切』『昭和切』若書きの『顕広切』壮年期の『御家切』
 最晩年のものは『日野切』だと考えられており、定家の『明月記』にもその記録がある。

 顕広というのは、俊成の以前の名である。(54歳で俊成になる)

 →疑問点
  ・『顕広切』『御家切』には独特の奇癖がいまいち感じられない。本当に俊成自筆のものか?

  ・『元輔集』を書いたという記述もあるが、その『元輔集』はどんなものか?

 →他
  ・周りにスタッフが居たと考えられており、彼等の中には俊成の書を真似た者も居るのではないか。

  ・勅撰集『千載和歌集』は後白河天皇の命によるものである。

  ・一葉ってなんぞ。

  ・『広田社歌合』(俊成59歳?)『歌合判詞』『住吉切』『了佐切』は結局俊成の自筆じゃなかったのか?

  ・で、結局『日野切』にどう戻ってくるかだよねー!



こんなもんか。
資料は5冊あるから、なんとかなるかね。期限は12/3だけど。



【追記】
2009.3.30MSNニュース。
炭素14法により、以下のことが判明した。

藤原俊成筆と伝えられた古筆切3点は、「顕広切」は年代が合わず後世のものと判明。「御家切」は俊成の晩年とわかったが、だれかが書写したものと判定された。唯一「了佐切」だけが、永暦2(1161)年、48歳のときの原本の可能性があるという結果となった。


ですよね!良かった!俊成風というよりは定家風?っぽいかんじがしてた。
あと、若書きとみられていたとはいえ、俊成の書き方とはやや違うものがあると思う。


ところで『元輔集』が見つからないんだがどういうことだ。
あとは『御家切』を見つけないといけないな。


…もう『日野切』のレポートじゃなくて、藤原俊成の作品についてで良いんじゃね?



【追記】
おい、『元輔集』じゃなくて『元真集』じゃねーの?
『加賀切』(元真集の断簡)が俊成筆って出てきたぞ…。
どうかわからんから、火曜に教授にきいてくる。
明日図書館行くからそれも見る。

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